「献げる生き方がある」  08.09.07
                   ヨハネ 12:1〜8
 ベタニヤという村のある家に、香油の香が広がりました。
 その家のマリアという娘が、主イエスに大量の香油を一度に
注いだからでした。注ぎかけた香油は、一人の年収に相当する
金額のものでした。その場には、後に主イエスを裏切るユダも
いました。彼は、マリアの行為を攻め立てました。聖書は、
主イエスの前で対照的な態度をとる二人の姿を、私たちに
見せつけてきます。
 ユダは、高価な香油があるならば、それを主イエスに注ぐよりも、
それを売って得たお金で貧しい人を助ける方が良いと言います。
善意ある言葉ですが、それは本心ではなく、自分を良く見せようと
する偽善でした。彼は、貧しい人のことを心にかけていたのでは
ありません。弟子として主イエスのことを心にかけていたのでも
ありません。自分のことだけを心にかけていました。
彼は、イエスさま一行の財布を預かっていたのにそれをごまかして
いたとあります。自分の利益のために主イエスを利用していたと
いうことです。先生や仲間よりも、自分の得を最優先していました。
 ユダのような心が、人には生まれやすいのです。信仰生活の
ことも、自分のこの世での損得だけで考えそうになります。
主の救いによる永遠の命を得ているのですが、その恵みを
忘れたかのように、この世の損得計算によって、教会生活や
奉仕を考えてしまうことがあります。
 大量の香油を注ぐことは葬りの準備でした。マリアは、主イエスの
十字架を見抜いていたのでしょう。命を棄てて、自分たちの救いを
完成しようとしておられる主イエスを見て、マリアはじっとして
いられませんでした。感謝の気持ちを持って、すべてを献げて主に
精一杯お応えしようとしました。
 自分の損得に心を奪われているユダと、主の愛に心を
奪われているマリアの違いが浮き彫りになっています。
 主の愛を知って、そのご愛に応えようとする献身的な歩みを、
主イエスはお喜びになります。